作戦決行の日(遠い記憶の続き)

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中学2年の時だったでしょうか、
体をこわして家にいるようになっていた母が、
男の子を産みました。
私にとっては弟になりますね。
弟は生まれながらに障害を持っていました。

生まれたときは普通の赤ちゃんと思っていたら、
次の日に心肺停止状態に。
出産した産婦人科では手に負えないと言うことで、
救急車で大きな病院へ。
何とか命を取り留めましたが、
先天性の脳性小児麻痺と診断されました。

そこから母にとっては
本当に大変な生活が始まりました。
しかし、母は絶対に弱音を吐くことはありませんでした。
働きもしない父親が手伝うわけもなく、
また仕事もしない状態はずっと続きました。

私は中学を卒業後、
定時制高校に通いながら働き始めました。
学校の先生に紹介していただき、
就職に関して苦労はしませんでした。
この時期は私をよりタフにしてくれたと思います。

高校に入ってまもなく、
母はある決断をしました。
父に見切りをつけたのです。
私と同じで決断すると行動は早いです。
作戦が進行して行きました。
家を借り、
父の知らぬ間に荷物がまとめられていきました。

実はこのときワクワクしていました。
母も同じ気持ちだったかもしれません。
もうこの頃は
父親の暴力におびえる必要はありませんでしたが、
それでも重苦しい空気は同じでした。

作戦決行の夜。
父親のいない隙にあっという間に家を出ました。
父はかなり驚いたでしょう。
新しい家はひどいものでした。
隙間だらけの家。
もともと馬小屋だったらしい。
でも、幸せに感じましたよ。
ようやく父から解放されましたから。
この家には高校3年まで住みましたが、
それまで母は弟を預けて働いていました。
とても大変だったと思います。

このとき私は仕事を変えました。
それがいま勤務している会社です。
それから給料がかなり増え、
母は弟と一緒に住むことができるようになりました。
弟は障害がありましたが、
一番幸せな時期だったようです。

話が長くなりました…。
弟は数年前に亡くなりました。22歳でした。
最後まで言葉を発することも、
自分で歩くことも、自分で食べることもできませんでしたが、
表情は豊かで人を見分けることも、
どういった性格の人かもわかっていたようです。
何度も命を落としそうになりましたが、
とても長生きでしたし、
母と一緒でとても幸せだったと思います。

弟の世話から解放された母ですが、
もう既に限界だったと思います。
さすがに年を取ってしまいました。
自分の人生を送って欲しいと思いますが、
ん~どうなのかなぁ。

Profile

タロー:

創価大学通信教育部法学部法律学科に在籍。二級建築士(2005年合格)、初級シスアド。電気製品、タイ料理、映画が好き。かつて新人類と呼ばれた世代。「若者を打ち負かしてやる!」との意気込みで日々勉強に励む。私へのメールはこちら